「苦しみ、それは喜びへの招待」 06.08.27
フィリピ4:4〜7
「フィリピの信徒への手紙」は、しばしば「喜びの手紙」と
呼ばれます。その証拠に、全4章という決して長くはない
手紙の中に何度も「喜び」という言葉が登場し、また私たちに
「喜びなさい。」と幾度となく勧めています。
しかし、パウロがこの手紙を書いたとき、彼は囚われの
身でありました。牢獄の厳しい環境にあって、なぜ彼はここまで
力強く喜びを語ることができたのでしょうか。
日々の歩みの中で多くの苦しむべきことや、悲しむべきことが
起こっているなかで、4節でパウロが繰り返し勧めているように、
「常に喜」んでなんかいられないのが私たちの現実でしょう。
しかし、ここで私たちに求められていることは、何か喜ぶ(苦しむ)
べきことがあったから喜ぶ(苦しむ)のではなくて、主に「喜びの
根拠」を据えることです。外から起きた出来事に「喜ばされる」のでは
なくて、「自ら喜ぼう」という姿勢に立つことです。それが、「主において
喜ぶ」ということでしょう。
私たちが日々味わっている様々な苦しみや悩みは、神様から
与えられたものです。私たちにとって必要な物を全てご存知の神様が、
私たちに必要と見てお与えになったものなのです。神様は私たちを
本当に良い方向へと導いてくださいますが、今の苦しみは全てその
通過点に過ぎません。いつまでも続くものではありません。私たちに
とって非常に大きな意味あるものなのです。「思えばくすし、主の御心、
世のむなしさに意味をあたう。恵みの日にもわざわいにも、御手に
ゆだねて、われらやすし。(讃美歌第二編57番)」
だから、私たちは思い煩わなくてもよいのです。
主が誰よりも私たちを気にかけてくださっているので全てを主に
委ねて歩んでいくことができるのです。
救いは神様からの恵みの賜物です。それは「あなたがたは
恵みにより、信仰によって救われました。 このことは自らの力に
よるのではなく、神の賜物です(エフェソ2:8)。」とある通りです。